平安時代から、それ以前とも言われる雛人形と雛祭りのおこりと移り変わりを表にして掲載しました。ひな祭りの歴史を探ります。
雛人形と雛祭りの関係を比較しやすいよう年代別に、一般の年表のように新しい年代を右へと並べたため、少し見づらいかと思いますが横長としました。また、各種資料を漁って表を完成させましたが、年代にはさまざまな説が入り乱れており、解釈の違いや、誤りがあるかもしれません。考察についても同様です。ご了承ください。
時代の流れ | 縄文時代 | 弥生時代 | 古墳時代 | 奈良時代 | 平安時代 | 室町時代 | 江戸時代 |
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雛人形の変遷 |
多産や豊穣を祈る地母神として崇め、災厄などを祓う目的で土偶(どぐう)が使用されていた。 |
真偽不明ながら、天児(あまがつ)、這子(ほうこ)の発祥時期か?神天児(かみあまがつ)の神名を賜った稚児をモデルとして人形が作られるようになった。這子(ほうこ)は、ワラに布を被せ、また天児は布のみにて作ることとなった。厄災からの身代わりとしての役目。 |
ひとがたの表現がより多様になった埴輪(はにわ)が出現。祭りごとの中心である巫女を模したものや乳を飲ませる母親など細かな描写へと変化。目的は違いながらも『生存する人の身代わり』という意味を持たせるようになった。 |
禊や祓いの儀式に人形(ひとかた)、形代(かたしろ)が使われていた。 |
天児(あまがつ)が文献に登場した『源氏物語』。赤ちゃんの形をした人形から、這子(ほうこ)と天児(あまがつ)に派生していったと考えられている。枕元に置き、赤ちゃんに降りかかる災いの身代わりとして使われた。 | 曲水の宴から変化した川に流す人形の他に、部屋の中で飾って鑑賞するための人形(お雛様の原型)が作られ始めた。 |
女性が旅行や嫁入りの道中での災いを人形に代わってもらおうと抱いて輿に乗ることが慣わしとなり、やがて嫁入り道具のひとつに数えられるようになった。武家や公家でも同じことが行われるようになったため、より豪華に変化した。庶民の間でも使われ始め、芸術性の高い雛人形へと昇華していく。立ち雛、寛永雛、享保雛、次郎左衛門雛、有職雛、古今雛、賀茂人形などさまざまな雛人形が登場する。 |
雛祭りの変遷 | 中国では、上巳の日に行われていた禊が、三国時代の魏王朝より3月3日に行われるようになった。後に曲水の宴に変化(353年以前)。 |
3月上旬の巳の日に水辺で禊を行う中国の風習が伝わり(平安時代とする説も)、日本では曲水の宴(水辺に座り酒を注いだ杯が自分の前より通り過ぎるまでに詩歌を詠む行事)が宮廷の儀式として485年3月行われた『日本書紀』。 |
曲水の宴が公家の私的な遊びとして催されていた。 人形(ひとかた、形代とも)を肌に擦りつけ災いや罪をその人形に移し、水(川や海)に流し穢れを祓う民間風俗があった。 |
曲水の宴と人形を水に流す風俗が融合し『流し雛』の原型となった。 御所風の小さな御殿に人形を飾って遊ぶ『雅な遊びごと』が宮廷貴族の幼女の間で行われた。 |
公家の女の子の遊びとして人形を使ったひひな遊びが行われた。ひひな遊びの言葉は、平安時代の『宇津保物語』にて記述されている。 |
人形遊び・飾りとしての形式と祓い儀式・節供が結びつき、雛遊びから雛祭りへと変化した。現在の雛祭りに近づいたのは、徳川秀忠の娘で後水尾帝の中宮として入内した東福門院が催した雛の宴(1629年)。また、宮廷・武家の間でのみ行われていたひな祭りも、1700年頃から庶民の間で行われるようになった。 |
※年表のため横長です。スクロールしてご覧ください。
中国が発祥とされ、元は罪や穢(けがれ)を祓う禊(みそぎ)とともに杯を水に流す宴である。上巳(3月上旬の巳の日)に行われていたが、後に3月3日に行われるようになった(遅くとも353年、『蘭亭序(らんていじょ)』に3月3日に催されたことが記述されている。この時にはすでに曲水の宴とされている)。この曲水の宴が日本に伝わり、古くは日本書紀に弥生時代(485年)に宮廷の儀式として行われたとされる。奈良時代には3月3日に催されるようになり、平安時代では御所の公式行事となった。
日本では、曲水の宴が伝わる以前から、春先に清流で身を清めて不祥を祓い無病息災を祈る行いが民間習俗としてすでにあったため、曲水の宴もしくは上巳の禊の行事が受け入れられたことは想像に難くない。庭の遣水(やりみず。小川のこと)にお酒を注いだ杯を浮かべ、杯が自分の前を通り過ぎるまでに和歌を詠み短冊にしたため盃をいただく、もしくは自分の前を通り過ぎるまでに和歌が読めなければ盃をいただく歌遊びで、盃を水に流すことから罪や穢れを洗い流す意味や目的で行われていた。以下は、現在でも祭事として曲水の宴を催している史跡。
※曲水の宴で使われた神酒が、後に雛祭りで欠かせない白酒へと変化した(江戸中期)。ちなみに中国では、桃の花を浮かべた桃花酒が使われた(桃には邪気を払い長寿をもたらす力があるといわれることから)。
アジア大陸から日本が分離した新石器時代以降、縄文時代になると、人々は定住化するようになり、生活の様式が一変する。定住社会が生まれ、生活の道具である土器が出現した。このころから人の形をした土偶も出現する。自然を恐れ敬う心から御霊・精霊信仰が生まれ、死に対する恐れや疫病や天災を何かに祈ったり身代わりとすることで、逃れられるよう祈ったのではないかと推測される。縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪などは、祓いのための祭器であり、同時に身代わりとしての信仰の道具であったのだろう。
身代わりという意味を持つ人の形をしたものが生活の質とともに変化していくことは当然のことであるが、『ホツマ伝え(縄文後期から、弥生、古墳時代の歴史文化を記した古文書。真偽不明)』には、すでに布を使用した『天児』と『這子』といわれる人形とその起こりについて記載されているようだ。天児と這子は当初、赤ちゃんの枕元に置き、赤ちゃんに降りかかる災いの身代わりとして使われていたことが知られているが、それ以前には同じ意味合いで木の枝や草で人の形を作り、赤ちゃんの側に身代わりとして置いていたといわれている。
また、古墳時代に中国より日本に伝わる『曲水の宴』は禊としての催しであるが、これは、水が神聖で罪や穢れを流し清めるものと信じられていることによる。『曲水の宴』は古墳時代、天皇が主催する宮廷の催しごとであったが奈良時代には公家でも行われるようになる。民間では形代に身をすりつけ水に流すことで穢れを祓うことを行っていた。このヒトガタである形代を水に流す風俗が杯に神酒をつぎ浮かべていた『曲水の宴』と融合し、災いの身代わりである形代を水に流すようになったのが平安時代といわれている。流し雛の原型である。流し雛は、和歌山の淡嶋神社や鳥取に風習として今でも残っている。
儀式とは別に、平安時代に女子の間の遊びとして人形を使ったひひな遊びが『宇津保物語』に登場してくるが、このひひな遊びが公家の間に広まり遊びに使う人形が時代の流れとともに豪華になっていった。同様に流し雛として儀式に使われるヒトガタも簡素なものから、より豪華なものへと同様に変化していった。そして室町時代には、流すための人形ではなく、祓いの意味を持つ部屋に飾るための人形が登場した。雛人形と呼べる人形である。この頃は、立ち姿をしており、天児が男雛に、這子が女雛に変化したとも言われるが、確証はない。
さらに町民文化が花開く江戸時代になって、雛人形は身代わりのシンボルとしてまた、愛玩の道具としてその地位を確立し、現代の雛人形に近い形となっていったのである。
一部のサイトに『ひな祭りは中国から伝わってきたもの』と記されているが、『形代を水に流す祓い風習』と中国から伝わってきた『曲水の宴』と、幼女の『おままごと様の遊び』が融合し変化していったものであると考えられ、中国にはひな祭りのような文化はみあたらないことから、ひな祭りは日本独自の文化であるといえる。
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